さおたむの激情派劇場

道なき茨道を超絶幸せに爆走する生き様を。

終わりは始まりなわけで。儚さは美しさなわけで。弱さは強さなわけであって。

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その時の自分の感覚によって、受け取りたいと思う言葉が変わる。

まっすぐに前だけを見ているような言葉によって、自分が走り出すエネルギーや踏み出す勇気をもらったりする日もあれば、何だか少し後ろ髪をひかれるような切ない表現に浸りたい日もある。

「愛してる」というキザなセリフを真正面から見つめられて言われたいという日もあれば、目を伏せたまま横並びで「月が綺麗ですね」と聞こえるか聞こえないかくらいの声でつぶやかれたい日だってある。

 

同じ意味を持つ言葉であっても、その時の自分の状態やアンテナの感度によっては受け取れる表現と受け取れない表現があるのは事実だと思う。

 

 

私にとって今日という日は、何だか儚げでさみしそうでそれが何だか美しくて、でもその陰で泥臭くもがいている姿が垣間見えて、実は前に進もうとしていて。そんな外にまっすぐに出せない心の中で渦巻く思いを矛盾したような、わざと暗号化したような、誰もが分かる言葉に変換することなく、その人だけの言葉や描写をしているものに心を奪われるような日だった。

 

 

この世の中は必ず対があるという。

闇があるから光があり、陰があるから陽がある。

どちらか一方だけを存在させることは不可能だ。

 

 

まっすぐといつも明るく全力で走り続けていて行動力がありみんなに好かれて頼られるような分かりやすい性格を陽とするならば、静寂な闇の中にこもり頭の中でいろんな言葉を紡ぎ誰からの侵入も許さず失ったものに心を寄せるような性格は陰と呼べるのだろう。

 

陰と陽はどちらか一方だけを持つことはできない。

どちらか一方だけ多く持つこともできない。

陰が5であれば陽も5であり、陽が10であれば陰も10である。

陽が1増えれば陰も1増える。

 

とてつもなく大きなエネルギーを持っていて、何かしら人を引き付ける魅力のあるスター性のあるどう見ても光の部分ばかりに見える人は、その反面どこかで同じくらいの闇を抱えていて、その闇すらも充実させ受け入れパワーに変えているからこそ、より光の力が強く眩くなるのではないか。

 

 

逆に闇の部分に光を当てる人もいる。

深い闇の世界観をそのままに表現をし、それを個性として、それを自分として世の中に打ち出していくことによって、その闇に惹かれる人たちに支持をされスポットライトを浴びている人だっている。

 

 

一般的な言葉でいう普通の人とは、どちらも抱えているものが小さな人のことを指すのだと思う。

もしくはそのような闇を背負うくらいなら光も欲しない人か、光を欲しながらもその闇を背負う覚悟がなくそれを望まないという選択肢をとる人のことだろうか。

 

 

それでも人は意外と闇が好きで、儚いものが好きだ。

本能的にその対の関係が見えないと安定感を感じられずその光すらも信じられないからなのか、それとも光だけを誰かが受け取っているとそれが羨ましく感じてしまうため納得できないからなのか。分からないけれど。

 

 

だからこそ。

人よりもどん底を味わい苦労をし、その後大成功を収めた話ばかりが大々的に取り上げられ、人は心を打たれる。

終わると分かっていて、その前に光を浴び精一杯に輝きその後散っていくその儚さに美しさを感じる。

終わりがあるからこそ輝けると信じ、その最期の姿を称賛する。

 

 

残酷ではあるけれども。

やはり終わりがあるからこそ、今があると言える。

闇が存在するからこそ、光があるのだ。

 

 

それでも人は終わりを恐れ闇を嫌う。

自分のそのような現実には目を伏せ見ないようにし隠しないものとし、周囲の人間の闇は信じられない受け入れられないと豪語する。

それでもって強い光を望む。

究極の矛盾、存在しない理想を自分においても周りにおいても求める。

 

 

しかしその2つは対の関係である。

中合わせ、隣りあわせ。切っても切り離せない関係。

 

 

だとすれば。

光を求める際に、その今まで伏せてきた闇に焦点を当て全力で見つめてみるのはどうだろうか。

光に焦点を当てると闇は深くなる。目を背けているから苦しくなる。勝手に大きくなるその理解不能な世界はそれまでよりもより受け入れられがたい存在となる。

それは自分には認識ができないところで存在しているからだ。

認識ができないのは、自分が目に入れないようにしているからだ。

 

見えないものは怖い。

だとすれば見ればいいだけなのだ、自ら。

 

 

その深く暗い闇が訪れた時にはその中に自ら潜り、光の中にはない闇の中にしか存在しない景色やその美しさ、情緒や感じ楽しめばいい。

闇をより理解し認め楽しみ、その時にしかできない思考と表現を自らの個性だとすることにより、光すらも力と深みが増し、理由のつけられない魅力と変わるのだ。

闇を自らのものとした人の言葉には重みがあり、説得力があり、その立ち姿だけで何かわからない見えない力を感じるようになる。

深い闇を知らない人、見て見ぬふりをして避けて生きてきた人間の光は面白みがなく、単調で一辺倒だ。

 

 

そうすると、陰や闇は怖くなくなる。

終わりは喜びとなる。次の世界の始まりだから。

儚さは悲しみではなく、美しさとなる。

 

そういう世界も理解ができるようになると、より今見える世界は今しかない何物にも代えがい大切なものであり、その美しさは際立ち、それまでとは構成する色が変わってくるのだ。

 

だからこそ。

その時の自分の直感と心の底から求めるものに従って、自分が触れるものは慎重に選んだ方がいい。

適当にいろんなものが受け取れるこの世の中においては。受け取れるというより、受け取らないようにしていても当たり前に情報が入ってくるこの時代においては。

 

ただ受け取るのではなく、自ら選択し受け取る。

その時の自分の状態に応じて最も必要とされる表現を、空気を、言葉を、景色を、映像を、音を。

同じ行動で同じものを受け取るとしても、そこに主体性があるかないかだけの違いは正反対と言えるほど大きな違いである。

 

 

それこそが自分を大事にするということだ。

対の関係をどちらももった、矛盾だらけの自分を自分自身が愛するということだ。

 

 

避けるのではなく、見つめる。

逃げるのではなく、向き合う。

批判するのではなく、認める。

嫌うのではなく、愛する。

 

そうした時に闇は光となる。

 

 

どんな主人公も例外なくいつも何か大切なものを失っているのだ。

それを取り返すための奮闘の中、自分と向き合い立ち上がるからこそ、それが1つのストーリーとなるのだ。

弱い奴がその過程ですべてを受け入れ、闇すらも力に変えていくその姿に周りの人間は影響され力を貸すようになっていく。

それがその弱いやつが主人公である所以なのだ。

 

だから、

終わりは始まりとなり、儚さは美しさとなり、弱さは強さとなるのだ。

 

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