はぴねすくるー

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「本当の自分」なんて存在しなくて、でもそのすべての自分が素敵すぎるという仮説

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何もできなくて人としての形すら保てずに廃人のように過ごしたぐちゃぐちゃで記憶すら曖昧な9月の最終日。

やっと自分が抱えてきた言葉にならない外に出しては拒絶されそうなドロドロの中身を形として表現してあげることで少し昇華することができた。

 

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そんな何か今までとは少し違う色で世界が見えるようになってきた静かな夜。

 

私はある人に会いに行った。

今私の周りにいる人の中では数少ない私が愛してしまうそういう世界に対して共鳴を示してくれる、私の感覚的でよくわからない話をいつも聴いてくれる変わった人。

 

その人は言った。

「たまに本当の自分とは何なのだろうと考えるんだ。」

と。

 

見せている自分。見えている自分。創造する自分。

きっとこの時に指す「本当の自分」には3つの意味があると思う。

周りに見せている自分と周りから見えている自分と自分の人格を創造している自分。

誰かと関わってしか生きられない社会性を持ち合わせた人間という生命体であるからこそ思考することができるであろうこの3つに対しての自分自身にかかる疑惑。

 

きっと考える前から答えなんてないんだと割り切って生きていく方が楽なのに、そんな器用にできなくて、どれだけ考えすぎと言われたところで納得いくまで追求してしまうそんな性質の人だからこそそんな発言がでたんだろうと思った。

 

私自身そんなくだらないことを考えてしまう癖があるし、そこに対して理由付けをきちんとした上で1つ1つ飲み込んでいかないと、いつかその中に入っていた小さな小骨が自分の中身を傷つけてしまうから。

 

そんな不器用でこの世界で生きづらさを感じる人へ。

社会の正しさに押しつぶされて時に自己否定してしまうような自分の一片すらも素敵だと肯定するような仮説を立ててみることにした。

 

 

 

見せているのではない。魅せているのだ。

その人によって、見せたい自分が違う。会う人によって見せている顔が違う。

そんなことはきっと誰しも行っていることである。

例えば会社にいる時の自分。上司としての自分。部下としての自分。社内での自分。社外での自分。家族としての、子どもとしての、親としての、自分。恋人としての自分。他人としての自分。リアルの自分。ネット上の自分。あの人と会うときの自分。

その顔の数は人によって違えど、誰しも複数の自分を持っているだろうし、いくつかの人格ともよべるほど確立した違う顔を持つ人もいるだろう。

 

それは求められるものも違えば見られたい自分もその場所その人によって違うだろうから自然とそうなるだろうし、そうしたいと望んでいるのも自分であるはずだ。

だけれど時にその複数の自分が全て自分ではないような気がして、どこかに本当の自分が存在してそれに仮面をつけかえているような、なんとも言えない哀しさが襲ってくるときがある。

そんな時に人は本当の自分とはどれなのかと考えるのではないか。

 

そんな時はきっと求められる人物像に振り回されているのだと思う。

この場所ではこういう顔でいないといけない。

こういう自分しか求められていない。

 

そんな思い込みと強迫観念に支配されている状態。

 

そんな時には実際にはそれはすべて自分自身であることを思い出せばいい。

 私という唯一無二の自分が表現している自分なのだから、それは本当にただの唯一無二の自分の一部である。

ただ、その1つの場所ではすべてを晒していないだけで。

 

例えば、俳優などの職業で考えると分かりやすいのだけれど。

1つの役をできる人よりもさまざまな役をもはやその人自身なのではないかと思わせるほど観客を引き込み、リアルに演じれる人の方が高く評価されるのである。

それだけ多くの感情や人格の引き出しを持ち、それを自分のものとし表現をすることができるということは1つの立派な才能だということが言える。

 

だからいろんな顔を持っていることを卑下する必要はない。

多くの顔を持ち、その場に応じていろんな自分を魅せているのだ。

あなたはそんな多面的なとても才能あふれる素敵すぎる人だ。

 

 

見えている自分は他人のものさしで測られた架空の存在

普通にしているだけなのに、周囲の人に勝手にいろんな評価をされ分類されている気がする。

同じ自分でいたとしても矛盾した存在として見られることが多々ある。

 

例えば私の場合。

その感受性の豊かさと表現力は才能だという人もいれば、メンヘラでどうしようもなく情緒不安定でかまってちゃんだと言う人もいる。

とても明るく社交的で人見知りせず誰にでも可愛がってもらえる性格だからと羨ましがられることもあれば、闇が深すぎて支離滅裂で誰とも交わることのできない社会不適合者だと評されることもある。

 

両極端すぎる見られ方をするといつもどれが真実でどれが嘘なのかと迷った。

自分ですら分からない。

 

そんな迷いの中で導き出した仮説が

「どれも自分ではない」という結論だ。

 

見られている自分とは、自分を見た他人がその人自身の尺度を使って自分勝手に評価し位置づけカテゴライズした存在である。

その人が自分を見る観点、角度、その人自身のアンテナの方角、感度、フィルターの色。そんなもので大いに変わるものである。

もしかしたらその日の気温や湿度や天気すら影響している可能性だってある。

 

それほど人の見え方とは千変万化であり、確立した存在ではないのだから。

その人の中に存在する私という存在は、私自身とは何ら関係のない架空の存在であるとさえ言うことができると思っている。

 

だからそんなものに振り回される必要はない。

「あぁそう見えるんだなぁ」とまるで他人を見るように見ているくらいでちょうどいいのではないかと思う。

それは高い評価に関しても低い評価に関しても。

 

誰かが期待する自分で入れなくても、評価に値するような自分でいれなくても別にいい。

別に自分自身はその人の為に生きているわけではないのだから。

 

だからどう見られたとしても、そんなものは無視して、そんな両極端を持つ自分を、おもしろい評価をされる自分を、自分が自分自身を素敵だと思っていればそれだけでもうあなたは素敵すぎる。

 

 

感性も創造もすべては自分にしかできないこと

例えば、発する言葉、作り出す表情、ちょっとした癖、表現の方法、受け取り方の感性、頭の中のイメージ、急にふっと思い浮かんだ音。

そんなもので自分という人格が作られていく、というか自ら人格を創造しているという感覚がある。

けれど同時にその自分の創造は本当に自分自身が創り出したものなのだろうか、という不安が付きまとう。

そんなめんどくさいことを考えてしまうことがある。

 

私は言葉を生業にしているわけだけれども、この私の生み出した言葉は、表現は、世界観は、本当に自分の中から生み出したものなのだろうか、誰かの影響を受けて作り出されたコピーではないのだろうか。

そう考えると自分とは一体何者なのか、実は人の形をとっているだけで中身は空洞なのではないかという疑惑と虚無感に襲われることがある。

 

 毎日たくさんの作品や発想に触れ、そのひとつひとつを受容しているからこそかもしれない。

音楽、映像、物語、画像、言葉、記事。

触れるそのどれもが自分にはないもので魅了されるものばかりに囲まれて日常を送っている。

 

特に影響を受けているのは音楽かもしれない。

実際、ブログを書いている最中は音楽を流していたり、MVを流していることが多い。

 

大森靖子RADWIMPS、山崎美央、女王蜂、ぼくのりりっくのぼうよみ、米津玄師、クリープハイプmy hair is bad、SuG、sleepyhead、それでも世界が続くなら。

多才で独自の世界観があり、その主張が強く表現されているアーティストばかり。

そんな彼、彼女らの影響がまったくないといえばきっと嘘になるだろう。

 

 じゃあそんな影響を受けて生み出した私の思想、世界、言葉は私のものではないとなってしまうのだろうか、いやきっとそうではない。

私とまったく同じ日常を過ごし、同じ景色を見ている人はいないし、同じものをみたとしても全く同じことを感じることもないだろうし、それを同じ言葉で同じ世界を創造することもないであろう。

 

つまりその感性も、その表現方法も、すべてが私だけのもつ唯一のものである。

きっとあの人たちにはあの人たちに見える世界があって、その世界の中でその人独自の感性によって感じたものをそれぞれの表現方法で発信している。

きっとその過程は同じなのだ。

あの人たちが唯一無二であるのと同じように私たちも唯一無二の自分であり、誰ともかぶらない自分だけの個性と人格を形成している。

 

誰にもそれは真似できない。

だからそんなあなたは素敵すぎるのだ。

 

 

素敵な自分の分離と融合のバランス

「本当の自分」というひとつの定義に対して3つの観点から私個人の独断と偏見によりすべてが素敵すぎるという仮説を立ててみた。

 

結構長いこといろいろと書いてきたけれども、それぞれの人が自分という存在という1つの未知に対して、自分がどう意味づけをするかなのだと思う。

自分がどういう結論に持ち込みたいのか。

心地いいところを着地点とすればいいのだとは思う。

 

まぁ結局どの自分のカケラも素敵だと言える開き直る力が必要なのかもしれない。

 

ただ時にはその素敵すぎる自分が自分の首を絞めることだってあるかもしれない。

時に正しいことは武器に、才能は拷問器具になり得る。

そんな時は自分から切り離してしまえばいい。

たまにはそんな素敵な自分から離れてしまえばいい。

そんな離れることができる自分すらも素敵だと、その一片すらも愛してしまえばいいだけなのであって。

何もできない時間が生み出す大きなエネルギーもあるし、破壊の時間も消滅を望む時間も何ひとつ自分の定義のみで無駄ではなくなるし、無駄だとした上でその余裕を愛してもいい。

 

そこにはルールなんてなにもない。

分離も融合も自由で、自分で決めれて、自分が最も心地のいいバランスを保てばいい。

そのすべてが自分であり、自分ではなくて、そのすべてが素敵すぎるのだ。

 

 

無駄も、矛盾も、燃えかすも、破片も、灰汁も、静止も。

 

愛していい。

 

 

そんな自分が、あなたがとっても素敵だ。

私は誰に何を言われようが、そう肯定し続けていたい。