はぴねすくるー

恋愛も、家族も、仕事も。全部楽しみたい人の為の欲張りな生き方推進委員会。

桃色の渇望

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愛されたい。選ばれたい。

女はそう話す。

男に求められ自分ひとりだけを生涯必要とされることを望む。

それが女として生まれた意味で、男に選ばれてこそ価値があり、いい女である証だと。

 

 

桃色が似合うこと

物心ついた時には、なんとなく女は桃色という概念が刷り込まれていた。

なぜ女を象徴するのが桃色なのか、そんなことを考えることすら無意味に思えるほど、それは当たり前のことだった。

 

桃色が似合うのが女の子。

それでなければただ生物学上は雌というだけで、女ではないと言われているような気がしていた。

 

歳を重ねるほどにそんなことをより肌で感じるようになった。

男に価値を見出されなければ女にはなれない。

女は男がいてこそ女として生きることができる、か弱く儚げな存在。

だからこそ女は男を惹き付けるため、優しく魅惑的な桃色を選び、選んでくれた男の手によって本当の女となる。

 

何だかそんな風潮に違和感を覚え、遠ざけた時期だってあった。

けれどやはり女になりたいという想いと、女である女に底知れぬ嫉妬と憧れが溢れ出て、結局は桃色の誘惑に負けて染まっていくのであった。

 

 

女は強く逞しい。

人間も動物である。

全ての人間は女の中で育ち、女から誕生するのである。

子孫を残すため、女は自らの遺伝子と掛け合わせる片割れを探し、結ばれるのだ。

それは遊戯ではなく、動物としての本能である。

 

契りを交わし、交わり、十月十日の月日ずっと自らの命をかけてもうひとつの命を守り育てる。

それは女にしかできない奇跡の連続の素晴らしい生き様である。

 

 

それなのに何故、女は弱く守られる存在だと言われるのだろうか。

そのことが不思議でたまらなかった。

どう考えても女の方が強く逞しいではないか。

 

どうして女は選ばれなければならないのか。

どうして選ばれることを、愛されることを望むのか。

どうして女はそんな健気で儚い受け身の姿勢こそ女らしさだとしているのだろうか。

どうして女はか弱く可愛らしく頼りのない存在だと自らを表現するのだろうか。

 

 

女が作り出した女らしさ

もしかするとそのような価値観は男が作り上げたものではなく、女が作り出したものなのかもしれない。

 

『女が男など到底及ばないほど強く逞しいのは女自身よりも男の方が体感しているからこそ、はるか昔の人間は男主体の社会を作り出した。』

 

いつか何かの書籍でどこかの男が綴っていたそんな言葉が頭の片隅に残っている。

 

男だって女から生まれるのだ。

新たな生命は女からしか誕生しないのだ。

男にとって未知なる世界を知ることのできる女には到底かなわないことを男は知っている。

そんなことに気づいていないのはむしろ女の方だろう。

 

だから女は男が作り上げた男主体の世界の中で子孫を残すため、自らが男に求められる存在にならなければいけないと思い込んだのではないか。

 

そうして男に選んでもらうため、か弱く守ってもらう立ち位置を選んだ。

その時に使ったのが柔らかく可愛らしく儚げな桃色であったのだろう。

 

 

 

 

桃色は女の愛。

多くの女は勘違いしている。

自らの持つ女としての価値を。その溢れんばかりの桃色の魅力を。

 

本来、その色は男の目を惹くためだけの安っぽい道具ではない。

 

 

桃色は女の偉大なる愛だ。

 

桃色は女のまっすぐで強く凛々しい相手を思う情熱と、何もかもを包み込み受け入れる優しさが混じりあってできた愛だ。

 

 

 

女は愛されたいのではない。

 

愛したいのだ。

 

そしてその大きな愛を、この人類がたくさん行き交う世界中から見つけだした選りすぐりの男に受け取ってほしいのだ。

 

本来、女は選ばれるのではない。女が選ぶのだ。

自らの大きな愛を受け止めることのできる器を持った男を。

 

 

 

だから女が本当に心から望んでいるのは男に選ばれることでも、愛されることでもないのだろう。

 

その体の中から溢れ出るたくさんの愛を、自らが選んだ魅力のある男に惜しみなく与えたいのだ。

その男の未来を隣でともに見ながら歩き、自らの愛によって男の世界が切り開かれ、よりその魅力に磨きがかかることを望んでいるのだ。

 

 

だからこそ過去の男達の偉大な功績の裏には、偉大な女の存在があることが多いのであろう。

女の愛に包まれ背中を押され守られることで、男は本来自分の持つ輝き以上の大きな光を放つことができるのかもしれない。

 

 

 

 

存分に愛せばいい。

もしかするとこのジェンダーレスの時代に男やら女やらそんなものは関係ないのかもしれないが。

 

1人で生きることも選択できるはずなのに、男も女も誰かを愛したいし、誰かと共に歩みたいと望む。

 

 

誰しも渇望しているのは与えられる愛ではなく、与える愛である。

 

 

ただ、愛されたいと望むのは、自らが与えた愛を受け取ってもらえないことやその愛を無下にされることへの恐れからくる感情なのだ。

 

その愛を発揮した時に必要ないと言われるのが悲しく、受け止められずにこぼれ落ちていくのを見て傷つくのが怖く、それならば与えるよりも与えられる方がいいのではないかと勘違いを起こしているだけだ。

 

 

 

けれどおかしな話ではないか。

与えられる愛が、与える愛よりも価値が低いなんて。

 

そんなはずはない。

 

仮にそれが想う相手には伝わることがなかったとしても、自分自身で生み出した愛を与えようとした行為は何ら恥じることはない。

 

そんな大きな愛を産み与えることができるというだけで、もはやそれは何物にも代えることができない素敵な価値である。

 

愛したことによって失うものは実は何も無い。

残るのは以前よりもより深まった魅力だけだ。

 

 

己の欲望に素直に従えばいい。

存分に愛せばいい。

愛し方を間違えたらまた違う形で愛を放てばいい。

 

その喉の乾きを潤すことができるのは自らが産み出す、桃色だけなのだから。

 

 

 

 

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